ウィキペディアのほとんどの記事は日本語版があるが、「TaliSol」の由来となる「タリスマン」は、ウィキペディアには項目がなくて、「お守り」の項目に同意の外来語として含まれている。
やはり、英和辞書で調べても、一番近い日本語の単語は「お守り」と「護符」となった。日本語辞典で意味を確認したら、その定義は以下のようとなる:
お守り:身につけていると危難を逃れることができると信じられているもの。特に、社寺の守り札。護符。
護符:神仏の名や形像、種子 (しゅじ) 、真言などを記した札。身につけたり壁にはったりして神仏の加護や除災を願う。お守り。ごふう。呪符 (じゅふ) 。
ということは、人間を守るものという意味である。日本人は、神社やお寺でもらえる守り札が思い浮かべるかもしおない。
ただ、実際にはお守りやお札は、安全や除災のためにだけではなく、招福や加護にも使うことがある。
世界中のお守りは様々な形である。
例えば、日本にも見られている「卍」(まんじ)は、昔からあらゆる遺物に招福のために彫られている。
特に、「طلسم」(tilism・ティリスム)であるアラビア語から英語に「タリスマン」として借りられた単語は、特別な魔力を与える意味を指しているようだ。
実際、もとの言葉は、「達成」や「儀式」という意味を表しているギリシア語の「τελεσμα 」(telesma・テレスマ)である。
語源は目的という意味を表す「τελος」(telos・テロス)となる。とういうことは、タリスマンとは、特別な目的を達成するために魔力を与えるものだろう。
そのため、「アミュレット」と違い、タリスマンはウサギの足や四葉のクローバーの様な単なる物ではなく、はっきりとした目的を対象にし、そのために作って関連している文章や信号が書かれている像となる。
何で「人間が最高のタリスマンである」か?
その引用の意味には、自分も長年悩まされている。一応把握している限りで説明してみるが、理解が深まり次第、この記事を更新したり追加したりしようと思っている。
おそらく、その引用がほのめかしているタリスマンの種類は、イスラム系のタリスマンだろう。他の宗教と同じ、聖典の引用が書いてあるタリスマンが多いかもしれないが、イスラム教の特徴の一つは、
「神様の名前たち」という概念だ。この場合は、「名前」とは、人名ではなく、「資質 」を意味している。例えば、「寛大」や「勝者 」がある。
イスラム系のタリスマンは、達成したい目的により、相応しいコーランの節や神の名前が書いてる文章が多いらしい。物ではなく、そのまま複雑な幾何学模様の中に、紙に書かれていることが多い。
元の引用は、他の引用に照らして分かりやすいかもしれない:
「Upon the inmost reality of each and every created thing He hath shed the light of one of His names, and made it a recipient of the glory of one of His attributes. Upon the reality of man, however, He hath focused the radiance of all of His names and attributes, and made it a mirror of His own Self.」
「どの創造物に対しても、神は御自分の御名の中の一つの名の光を注ぎ、御自分の属性の中の一つの属性の栄光を付与し、それらは創造物の本質の内奥にそれぞれ納められている。
しかし、人間に対しては、神は御自分のすべての名と属性の光を集中し、人間の本質をして神御自分を映す鏡とした。」
ということは、人間の精神には、タリスマンのように神様の御名が刻まれている。ただ、普通のタリスマンと違い、名がいくつかだけではなく、神様の全ての御名が刻まれている。
それは、ユダヤ教では「人間は神の像である」という同じ概念である。またコーランにも、「人間を最も美しい姿に創った」と書かれている。
人間は、何のためのタリスマンだろう?
以上説明した通り、タリスマンは特別な目的に創らている。
人間が最高のタリスマンであれば、何のためのタリスマンだろう?それは、おそらく動物との大きな違いなのだが、
人間は「何のために創られたのか?」、「何のために生きているのか?」自問するが、それは何千年もの謎なので、この記事で答え出そうとは思わない。
ただ、人間はタリスマンとして、どういう魔力を持っているのかある程度理解できたら、何のために創られたのかに例をいくつか出せるかもしれない。
一つは、言葉の力。もう一つは知力。自然は、制度があるところがあるのはあるが、カオスが多い。どうでも、自然は理解力も意思もない。
例えば、綺麗な花が多いけど、自然にはそのまま自分で出てくる花園はない。動物は反応だけで、人間だけが存在を美貌の次の段階に進ませられる。